『人生流転。生死はもと一つで、単に形を
変えたものにすぎない。』
これは、本書『人間というもの』
(司馬遼太郎)に記されている言葉です。
そう思えば、前に歩いていける。
実に、「深みを感じる」言葉です。
辛いときに、「心が救われる」言葉です。
人生を歩むということは、多くの予期せぬ
ことと向き合うことだと思うのです。
良きことと、あらぬこと。
前者はこころが安らぎ、後者は息苦しい。
本書は、後者に遭った時に、生きる術を
与えてくれる気がするのです。
「垂涎の一冊」といえます。
もし、そんな境遇に陥ることになれば、
「人間というもの」を心から知ることに。
進む道に迷うようであれば、本書に手を
伸ばされてみる価値があることをお伝え
しておきたいと思います。
本書は以下の章で構成されています。
・人間とはなにか
・組織から社会へ
・夢と生きがい
・日本と日本人
・等身大の英雄たち、等
本書で学んだ素敵な言葉
人は、その才質や技能という
ほんのわずかな突起物にひきずられて、
思わぬ世間歩きをさせられてしまう。
本書「人間というもの」より
長い人生はいろいろ、垂涎の一冊と共に
人生は、いろいろです。
いくつもの選択をしながら前に歩む。
迷うことは多々あることかと。
都度自分に問い、近しき人に相談し、
私淑、親炙を繰り返し、そして、最後は
自分で決断をする必要があります。
思考や発想、経験や相談で選択肢を揃え、
さて、どの道を選ぶべきか、
最終的には、「人間というもの」に
つくづく、思いを馳せることになる、
そう感じるのです。
そうした時に、やはり頼りになるのは、
「一冊の書」であったりします。
本書は、私にとって「垂涎の書」の
ひとつといえます。
日本人社会の中で生きて行く著者の考え方
『司馬文学の脊梁となっているのは
人間智なのである。』
これは、本書「余白に」に記されている
言葉です。
司馬文学で追求されてきたものは、
いったい何であったのか。
著者司馬遼太郎が追いもとめたものは、
本人に聞かなければわからないのですが
冒頭の言葉にある「人間智」であった
ように感じるのです。
「人間通」の魅力というのも、そのひとつ
の現れであるように思います。
人と人の交わり、そこから人間社会が
生まれ、中でも最も歴史の古い民族の
ひとつ、日本人が織りなす世界感。
ここに探求の的を定めた司馬文学である
ように感じています。
故に私の興味は尽きることがないのです。
人生の岐路に立ったときに、なぜか
司馬文学に手を伸ばしてきたように
思います。
龍馬がゆく、坂の上の雲、
ロシアについて、燃えよ剣、
関ケ原、等々
そして、登場人物から馳せられる言葉は
臨場感をもって、こちら側に伝わって、
くるのです。
「妻が陽気でなければ、夫は十分な
働きはできませぬ。」などなど、、、
「陽気になる秘訣は、あすはきっと
良くなる、と思い込んで暮らすこと
です。」
この台詞は、私の心の奥に、
深く深く入り込んでいくのです。
司馬文学は、どこまでも司馬文学です。
おそらく、最終章に至る過程で寄り道
をして、思想が変わることなどないように
思います。
いつ読み開いても、その「人間智」が語る
影響の大きさは、きっと変わることはない
ように思うのです。
いつまでも、進む道を示してくれる
私にとっては、「灯明の書」であり、
「垂涎の書」なのです。
では、本書の中で私が特に興味を惹かれた
箇所を引用しておきます。
本書に綴られた考え方を知り、自分は
どう考え、どう行動に活すのかを、
ぜひ、考えてみて頂ければと思います。
【引用5選】
❶人生の大事とは
志は塩のように溶けやすい。
生涯の苦渋というものは、その志の高さを
いかにまもりぬくかというところにあり、
それをまもりぬく工夫は格別のものでは
なく、日常茶飯事の自己規律にある、と
いう。
❷歴史と正義
われわれが、身辺の何が美しいかという
ことを思うのは、その民族自身が発見する
よりも、他のすぐれた文化によって、衝撃
とともに教え込まされるという場合が多い
日本人が秋の月を美しく思うというのも、
弥生時代の日本人もそう思っていたのでは
なく、のちに中国の漢詩が渡来し、その
類的体系の中で月の美しさを知ったと見る
ほうが自然である。
❸生死の差
一生なんざ、機会できまるもんでさ。
何をくよくよ川畑柳
水の流れを見て暮らす
人生流転。生死はもと一つで、単に
形を変えたものにすぎない。
❹サムライの国
侍には、どうやればシビライズドされた
人間ができるか、つまらないことまで
きちんとした取り決めがあった。
それが集積して、普遍化していくと、
文明の姿となる。
❺等身大の英雄たち
西郷は単なる仁者ではなく、その精神を
つねに無私な覇気で緊張させている男で
あり、その無私ということが、西郷が衆
をうごかしうるところの大きな秘密で
あった。
本書に私淑して私が思うこと
「思想というのは要するに論理化された
夢想または空想であり、本来はまぼろし
である。」
これは、本書「夢と生きがい」の章
に記された「台詞」の中の言葉です。
この言葉は、私の中でいつまでも
気になる言葉として留まり、
時々心の中で繰り返されています。
その理由は、その台詞の中にある
次の言葉を忘れることができない
ためです。
「それを信じそれをかつぎ、そのまぼろし
を実現しようという狂信狂態の徒が出て
はじめて虹のようなあざやかさを示す。」
「本懐」を遂げるには、どうあれば、
どうすれば、良いのか。
前者には、神体のように担ぎ上げて
わめきあがる物狂いの徒が必要であると
綴られています。
松陰の弟子、久坂玄瑞をその例として
記されています。
司馬文学から生み出される台詞は、
生きるための決断をする上での
指針を与えてくれます。
私には、なんとしても成し遂げたい
ことがあります。
しかし、のこされた時間はそう、
多くはありません。
真っすぐに、正しく、思いを追い続ければ
きっと、その支援者は現れてきてくれる
ように思っています。
信じています。
本書は、私にその勇気を与え続けて
くれているのです。
今回、本書を捲ったのは4回目です。
まとめ(「垂涎の一冊」)
今回は、『人間というもの』司馬遼太郎
についてお伝えしました。
私が司馬文学に触れてきたのは、
闌けた人の生きざま、それを遂げるまでの
考え方を知りたい、その思いからです。
私の人生は、真っすぐ、ただただ
真っすぐ、信じる道を歩んだものです。
その過程の中で、誰かの生きざまに
興味を示すこともなく。
そうした真っすぐ突き進む生き方は、
幼くして「目標」を定めたからです。
それは、小学6年生の文集に、
記されています。
時間があるときは、一途に自分だけを
信じて進めば良かったのです。
しかし、残された時間が、いよいよ
少なくなったと気付いた瞬間に、
「人の生き方」が気になりました。
それも、日本人の闌けた人の生き方、
考え方に興味を持つことになりました。
やがて気付きました。
一人では、「目標」に到達できない。
共にそこに向かってくれるパートナーが
必要であることの意味を知りました。
司馬文学は、私に多くの気づきを与えて
くれました。
そして、希望を。
とはいっても、まだ、
時間は残されています。
叶うと信じることが、明るく前を向き
歩める「笑顔」を生み出してくれると
今は、心から思えています。
真摯に歩きながら、
待ちたいと思います。
同じ夢を見始めたその人が、真の意味で
その人になる日がくることを。
少し、私話が長くなりましたが、
多くの人に司馬文学に触れ、
「人間というもの」について、
考え、自分を見つめる機会にして
頂ければいいな、と思っています。
ボアソルチ。
株式会社CSI総合研究所
代表取締役 大高英則
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